母・富子が空を飛んでいる。

あと数時間で、ブルキナにやってくる。
姉夫婦とは違い、
今度は事前に連絡アリ。
ベートーベンと同じ誕生日の母は、
昨年、高校の教員を退職した。
体育大でソフトボールに励んだ母は、
定年までよく働いたと思う。
念願だったエジプト旅行で、同行の友達が体調を崩す中、健康を貫いた。
自信をつけた母は、
私の友達と2人でやってくる。
大統領選挙による移動禁止の為、
私はウンデのバス停で迎える予定。
20kgだったというトランクの中身と共に、1年半振りの再会は楽しみ。
ソフトクリームにまでつく、シャネルの真っ赤なルージュがトレードマーク。
田舎ではよくあることに、私は母の勤める高校に進学。
授業は習わないけれど、バレー部の顧問と部長、親子鷹ってやつだ。
体育教官室に行くのが、どれだけ嫌だったか・・・
(ちなみに、一緒にやってくる友達は、副部長)
部活では、人一倍叱られ、たいして褒められなかった、気がする。
『保健体育の先生』と言えば、たいがい怖い。
校内で生徒を叱る姿を毎日見かけた。
掃除をサボるな。
スカートが短い。
2人乗りするな。
友達からも訴えられた。
お前の母ちゃんに漫画没収された。取り返して。
テストの結果も、先に知られてしまう。
高校生活のプライベートはない。
「お前、母ちゃんに似てるなぁ」と言われる。
当時はそんな全てが嫌だった。
そして、教員にだけはなりたくない。
固い決心もした。
今、巡り巡って同じ仕事をして思う。
ああ、すごい先生だった。

母は、母としてもすごかった。
部活を終えて帰宅しても、
必ずご飯を作った。
店屋物や出来合いの惣菜が並んだことはない。
就職してからの私は、晩ご飯がアイスだったりする・・・
お弁当に山形の知り合いから届いたイナゴが入っていた。
女子高生のお弁当に!
「お弁当箱に、イナゴ入れんでよ!!!」
翌日、まるでデザートのように、
小さなタッパーに山盛り入っていた。
でも、イナゴを食べた日のジャンプ力はすごかった。
教育実習の最終日、「傾けちゃダメよ」と渡されたお弁当。
授業が終わって開けると、大きなオムライスにケチャップの文字。
おつかれ
母は、私の越えることのできない人。
迷惑と心配をかけ続けている人。
そして、それが親孝行だと信じている娘。
そんな母が、もうすぐやってくる。
名前も覚えられなかったアフリカの国へ。
『ブルーのキらいナ どれみファソ』という、それを覚える方が大変だろう語呂合わせを作って覚えていた。
一体、何にビックリするだろう。
何に、感動するだろう。
もうすぐ、到着。
研修の合間、休みにかつて奴隷貿易で栄えたウィダという町へ行った。
大航海時代を終え、アフリカから沢山の奴隷が労働力として「輸出」された。
多くは、アメリカへ、そして中南米へ。
それは、のちに人種差別や隔離へ繋がり、アパルトヘイトやキング牧師に繋がる。
英語の授業でも、大きなテーマになる。

どうしてもその歴史が知りたくて、奴隷博物館を訪れた。
独立の翌年、1961年までポルトガルが統治していた建物が博物館。
実際に、船に乗せられる前の奴隷達も留め置かれたそうだ。
現地のガイドさんが説明してくれた。
アメリカは、そして同じポルトガル領ブラジルへ。
長い長い船旅を終え、健康な者はプランテーション農園へ。
体調に不備があれば、メイドや売り子として。
意外だったのは、無事に帰還した奴隷がいて、現地の文化を持ち帰ったいたこと。
そして、ウィダの当主は積極的に貿易を行い、
戦いに勝った隣国やあるいはブルキナなどからも奴隷を輸出していたこと。
手枷足枷や奴隷船を描いた絵などが展示されていた。
でも、「アフリカの博物館ってこんなもん」くらいにしか展示がなく、
想像していたような悲壮感や壮絶感はあまりなかった。

博物館から4キロ。
灼熱の、蒸し暑い道のりを、
何十人も繋がれた奴隷達は
ギニア湾へと歩いた。
今でこそ、砂浜には
奴隷門が建っているが、
かつては何もなかったはずだ。
帰れるかも分からない祖国。
どんな思いでこの海に向かったのだろう。
奴隷達が最後に見た「忘却の木」は、
今もその姿を残す。

この町も今では観光地。
お土産のマスク。

南国の象徴、椰子の実。

地元の人たちは、地引網。

遊泳禁止のギニア湾。
波が高く、荒い。
でも、どこまでも続く水平線と青い空。
時代は変わり、歴史は作られていく。
この海は、私には少し希望を与えてくれた。
ところで。
25日、クリスマスの飛行機は、乗客が少なくキャンセルに・・・
This is Africa!
26日夜にブルキナに帰ります。